●書初め展覧会 <大正3年>

年の初めの事始(ことはじ)めに、天神様(てんじんさま)の前で精魂(たんせい)込(こ)めて毛筆(もうひつ)で書き方をするのが、昔から伝えられた風習(ふうしゅう)でした。校長先生はこの書初めを学校の活動にしようと、正月の書初めや図画作品(ずがさくひん)などの展覧会(てんらんかい)を開催(かいさい)しました。この展覧会は年々盛大(せいだい)になっていき、やがて1月8日は書初め大会の日になりました。


●茶摘み休み <大正5年>

大正5 年から始まった「茶(ちゃ)摘(つ)み休み」は、その後昭和7 年まで続き、同8年からは田(た)植(う)え休み(6 月)に代わって以後(いご)なくなってしまったが、射水郡(いみずぐん)の山麓地帯(さんろくちたい)の小学校ではどこの学校も実施(じっし)していた休みでした。茶ノ木は、5 月中旬になるといっせいにやわらかい緑の新芽をつけ、瞬(またた)く間(ま)に開いて堅(かた)くなるため摘(つ)む時期(じき)は限(かぎ)られました。農家(のうか)の人は朝(あさ)早(はや)くから新芽(しんめ)を一生懸命(いっしょうけんめい)に摘みました。大人(おとな)に混(ま)じって一日中(いちにちじゅう)仕事(しごと)をすることは苦痛(くつう)でしたが、昼食(ちゅうしょく)には、重箱(じゅうばこ)につめたご馳走(ちそう)や、茶畑(ちゃばたけ)の即席(そくせき)かまどでわかしたお茶やあめ玉などが配られ、家では味わえない楽しいひと時でした。子どもたちはこのお金を修学旅行費(しゅうがくりょこうひ)や学用品(がくようひん)を買うお金にしました。


●修学旅行

修学旅行(しゅうがくりょこう)が遠足(えんそく)とともに一般化(いっぱんか)したのは明治30 年代でした。30 年代後半には、実際のものに触(ふ)れたり、見みたりする授業(じゅぎょう)や郷土(きょうど)の自然や生活、文化を教材とした授業が盛(さかん)んになり、郊外授業(こうがいじゅぎょう)が頻繁(ひんぱん)に行われるようになりました。体育的(たいいくてき)なねらいをもつのが「遠足」、見学(けんがく)を第一とした知育的(ちいくてき)な意味をもつのが「修学旅行」といわれました。


●世界的悪性流行性感冒(スペイン風邪) <大正7年>

大正7年、世界流行性感冒(せかいりゅうこうせいかんぼう)が大江小学校の職員と児童をおそいました。罹病者(りびょうしゃ)は170 余名(よめい)におよび、なお増える傾向(けいこう)があっため、4日間学校が閉鎖(へいさ)されました。

大正9 年1 月以降は、全国で大流行し、富山県内でも罹病者が日に日に増加しました。そこで、学校では全校児童にマスクをかけさせ、種々の注意を払ったことで、幸いにして罹病児童はわずかでした。約100 年前の子どもたちも、今の新型(しんがた)コロナウイルス感染症(かんせんしょう)と同じような経験(けいけん)をしていました。


●活動写真 <大正10年>

現在の映画(当時は活動写真(かつどうしゃしん)と呼ばれていました。)を無料(むりょう)で、しかも学校を会場としてみたのは、学校の記録(きろく)によれば、そのはじめは大正10 年でした。天皇陛下(てんのうへいか)が大正天皇の御名代(ごみょうだい)として欧州(おうしゅう)各国をご訪問になったときのご様子をフィルムにおさめたものを、県教育会が県下各地で巡回映写(じゅんかいえいしゃ)したことが、小杉の子どもたちの活動写真の見初めでした。活動写真は白黒で、しかも無声(むせい)映画であったため、解説者(かいせつしゃ)(弁士(べんし))が付いていました。


小杉尋常高等小学校校舎増築 <大正12年>

明治41 年に新築された校舎の東側に新校舎が増築されました。


●子どもと下条川 <大正15年>

 大正・昭和に育った人たちは小学生の頃、散策(さんさく)、写生(しゃせい)、魚釣り、水泳ぎ、舟、桜見などをとおして下条川で遊んだ思い出をたくさん持っています。

屈曲蛇行(くっきょくだこう)がひどく、大雨のたびに氾濫(はんらん)したため、大正15 年に改修工事が行われ、昭和7 年に完成しました。小杉小学校の子どもにとっても下条川は、心や身を浄める大事な鏡(かがみ)でした。