はじめてのピアノ <昭和2年>

小杉町婦女会の寄付(きふ)により、ピアノが初めて小杉小学校に入りました。その日は創校記念日で、記念式に続いて、ピアノの披露演奏会(ひろうえんそうかい)が行われました。


大江尋常小学校 新校舎完成 <昭和3年>

人づくりの大道場(だいどうじょう)として、村民の大きな期待(きたい)を一身(いっしん)に受けて新校舎が完成しました。


校庭の拡張 <昭和5年>

一周100 メートルのトラックがある運動場でおよそ1000 人前後(ぜんご)の児童が全体体操(ぜんたいたいそう)や全校朝礼(ぜんこうちょうれい)をしていたため、たいへん狭(せま)く、全校体操の時などは道にはみでるもの、手が十分に伸ばせないものがいて大変(たいへん)問題(もんだい)になりました。

そこで、校庭中央を流れる用水を暗渠(あんきょ)にして校庭を拡張(かくちょう)しました。トラックも200 メートルとなり、郡内第一の広い運動場になりました。



●臨海教育のはじまり <昭和5年>

昭和初期の新湊(しんみなと)の東浜や越ノ潟(こしのかた)周辺(しゅうへん)は白砂青松(はくしゃせいしょう)が続く県内でも有数(ゆうすう)の漁村地帯(ぎょそんちたい)でした。校外授業として、4年生以上の児童が初めて越ノ潟へ海水浴(かいすいよく)に行きました。交通手段は往復(おうふく)とも下条川を上下する舟を利用しました。海を見ることが少ない児童たちは、とても心を躍(おど)らせました。昭和21 年には、臨海学習(りんかいがくしゅう)の帰路(きろ)、船が沈没(ちんぼつ)する事故がありましたが、幸い全員無事(ぜんいんぶじ)でした。


高学年の修学旅行 <昭和5年>

大江小学校の6年生が石川県の和倉(わくら)へ一泊二日(いっぱくふつか)の修学旅行に行きました。その旅程(りょてい)は、午前7時に徒歩(とほ)で小学校を出発し、伏木港からは船に乗船(じょうせん)、七尾港(ななおこう)に到着後(とうちゃくご)は再び歩いて、和倉の宿(やど)に着いたのは午後4時でした。帰りは七尾駅から小杉駅まで列車(れっしゃ)で帰路(きろ)につきました。


二宮尊徳(二宮金次郎)像 <昭和10年>

尋常科第四学年で亡くなった平野さんの遺族(いぞく)から、供養(くよう)のためにと学校に贈(おく)り物の申し出がありました。学校は、児童に様々な徳(とく)を教え養(やしな)うため、報徳教育(ほうとくきょういく)の象徴(しょうちょう)であった二宮尊徳像(にのみやそんとくぞう)を希望(きぼう)し、昭和10 年、柴(しば)を背負(せお)って本を読むかわいい二宮金次郎(にのみやきんじろう)の銅像(どうぞう)が校庭に建てられました。

しかし、戦争(せんそう)が激(あげ)しくなると、武器(ぶき)を作るために町中の金属(きんぞく)を集める運動が盛んとなり、金属でできていた二宮金次郎像は工場(こうじょう)に運ばれ武器に変えられてしまいました。

しばらくして、平野家のご厚意(こうい)により、今度はコンクリートの二宮金次郎像が建てられました。銅像に劣(おと)らぬかわいい顔立ちで、今も小学校に保管(ほかん)されています。


●国民学校 <昭和16年>

日中戦争(にっちゅうせんそう)さらには太平洋戦争(たいへいようせんそう)がはじまり、「小学校」は「国民学校」に名前が変わりました。学校での学習時間は少なくなり、農作業(おうさぎょう)の奉仕(ほうし)や工場への奉仕が行われ、校庭でもサツマイモ、大豆(だいず)、小豆(あずき)、麦が作付けされました。お腹をすかしながらみんな一生懸命(いっしょうけんめい)働いた時代です。特に男の子は、「大人になったら兵隊(へいたい)さんになる」こと、国のために働くことなどの軍国教育(ぐんこくきょういく)が行われていました。

 

小杉国民学校、大江国民学校に改称


校舎焼失 <昭和20年>

神通川(じんずうがわ)で行われる夏の花火大会は、富山大空襲(とやまだいくうしゅう)(昭和20 年)の2年後、犠牲者(ぎせいしゃ)の鎮魂(ちんこん)と復興(ふっこう)、平和への願いを込めて始まったものです。

8月1 日深夜(しんや)から2 日の未明(みめい)にかけての空襲では、富山市中心部の大半(たいはん)が焼け野原となりました。五福の陸軍施設(りくぐんしせつ)も大きな被害(ひがい)を受けたため、小杉国民学校は臨時(りんじ)の野戦病院(やせんびょういん)になり、負傷(ふしょう)した兵隊の手当(てあて)や手術(しゅじゅつ)を毎日のように行っていました。そのような中、8 月6 日炊事室(すいじしつ)から出火(しゅっか)し、校舎は全焼(ぜんしょう)しました。

幾多(いくた)の人材(じんざい)を世に送るとともに、永(なが)く小杉町民の心のふるさととして親しまれてきた校舎は跡形(あとかた)もなくなってしまいました。


●国民学校の廃止と6・3制 <昭和22年>

「学校教育法(がっこう)きょういくほう」が定められ、国民学校は小学校になり、義務教育(ぎむきょういく)が現在の6・3制になりました。小杉国民学校は小杉小学校に、大江国民学校は大江小学校に名前が変わりました。また、教科(きょうか)は国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、体育、自由研究になりました。また、この時PTAも創設(そうせつ)されました。


小杉小学校 新校舎完成 <昭和24年>

校舎焼失(しょうしつ)後、小杉小学校は元陸軍(もとりくぐん)の施設を仮校舎(かりこうしゃ)として使用し、とても不便(ふびん)な状態(じょうたい)でした。体育館は倉庫を代用(だいよう)し、教室は寄宿舎(きしゅくしゃ)の和室(わしつ)を改造(かいぞう)した小部屋(こべや)を使用していました。やがて町民からの新校舎建築の声が強くなり、昭和24 年、元校舎跡に新校舎と体育館が新築されました。



NHK全国唱歌ラジオ・コンクール出場 <昭和24年>

PTAからピアノが寄贈(きぞう)され、ピアノ披露(ひろう)音楽演奏会(おんがくえんそうかい)が行われました。演奏してくださったのは、富山大学の黒坂先生と富山南部高校の大間知先生。大間知先生は昭和2 年のピアノ披露会でも演奏された先生でした。

演奏を聞いた先生たちは、合唱によって、こどもたちの美しく素直な心を伸ばそうと決心(けっしん)し、「全国唱歌ラジオ・コンクール」に出場することにしました。音楽部の先生が中心になり、5、6年児童から合唱団員(がっしょうだんいん)を選考(せんこう)し、夏休み返上(へんじょう)で練習しました。その年は県大会出場、次年度は県大会中位まで躍進(やくしん)。以後、昭和32 年度まで、常に3 位か4 位を確保し、射水に小杉小学校ありと言われました。


校歌「立山雄山」 <昭和27年>

小杉小学校には「治る御代に」の校歌がありましたが、戦後(せんご)は歌われていませんでした。未来の小杉町を背負(せお)う子どもたちの新時代にふさわしい校歌をつくりたいという当時の校長の思いに応え、PTAが特別事業として校歌を寄贈(きぞう)しました。歌詞には「立山雄山」「清流下条川」「桜並木の堤防」が使われ、曲は美しく、おごそかなものでした。


小杉小学校新校舎落成と創校80 周年 <昭和29年>

当時の古川校長は、「小杉小学校だより」で町民に校舎増築が急務(きゅうむ)であることを訴えました。児童数は979 名。各学年3教室の18 の普通教室に、特別教室が一つだけという状況でした。PTAも増築を推し進める運動を行い、その結果、願いは実現(じつげん)し、昭和29 年に校舎の増築工事が完成しました。この時、新校舎落成(しんこうしゃらくせい)と創校80 周年の記念式典が一緒(いっしょ)に行われ、PTAが中心となって記念事業も行われました。

記念事業:校庭整地、植樹、教室の時計整備、

映写機、児童用図書の充実など


大江小学校校歌とピアノ披露式 <昭和29年>

昭和28 年、大江村が小杉町と合併(がっぺい)し、小杉町立大江小学校に名前が変わりました。創校以来校歌のない学校でしたが、次の年、校歌「光よ光」が制定されました。子どもにわかりやすいことが最も大切ということで、とにかく明るく近代的(きんだいてき)な響(ひび)きをもった校歌でした。後年、ダンスが振り付けられ、子どもたちに大人気でした。また、ピアノも購入され、校歌制定(せいてい)とピアノ披露式(ひろうしき)が併(あわ)せて行われました。ピアノの初演奏は小杉小学校での初演奏と同じ富山高校教諭の大間知先生により行われました。


大江小学校創立80 周年 <昭和30年>


全国児童発生指導研究発表大会 <昭和33年>

NHK全国唱歌ラジオ・コンクールに音楽クラブが毎年参加し、年々力を伸ばしていいましたが、それは、一部の子ども、特定の学級に限られることが多く、学校全体の動きにはなっていませんでした。昭和30 年、県から児童発声の研究校の指定(してい)を受けたことで、懇切(こんせつ)な指導を受ける機会(きかい)に恵まれ、毎年の努力目標に必ず音楽のことが加えられました。2 年にわたる研究成果(けんきゅうせいか)を発表すると、先生、児童が一丸となりひたむきに取り組んだ姿が評価され、昭和33 年に全国大会を小杉小学校で開催することになりました。学校の設備を心配し、PTAはじめ校下有志(こうかゆうし)からグランドピアノが寄贈(きぞう)されました。当時の新聞は、全校児童の声楽発生(せいがくはっせい)が全国一のレベルと賞し、町全体で全国大会開催を祝っていたこと、全校児童が合唱に参加し、毎日猛練習(まいにちもうれんしゅう)に取り組んでいたことを伝えました。全校の音楽集会は小杉小学校では欠かせない特別活動になりました。


大江小学校の改築 <昭和35年>

昭和32 年度に大補修工事(だいほしゅうこうじ)を行い、校舎の危険性(きけんせい)は一旦(いったん)取り除かれましたが、その校舎の外観は児童に劣等感(れっとうかん)を抱(いだ)かせるようなものでした。校下民が一致協力して校舎新築を熱烈(ねつれつ)に陳情(ちんじょう)したことが実を結び、昭和35 年に新校舎が完成しました。


小杉小学校新体育館完成 <昭和35年>

昭和24 年に建てられた体育館は、木造建築(もくぞうけんちく)としてはかなり大きなものでしたが、児童数の増加で次第(しだい)に狭(せま)くなり、また、中の高さが新しい規格(きかく)に合っていないということで、新体育館が建築されました。町の公会堂(こうかいどう)としての使用も考慮(こうりょ)し、鉄筋鉄骨(てっきんてっこつ)の構造で、旧体育館の2倍の広さになりました


プールができた <昭和37年>

臨海教育(りんかいきょういく)の楽しい思い出がいっぱいの越ノ潟(こしのかた)の砂浜(すなはま)は、昭和30 年頃から次第にせばまり、汚染(おせん)がひどくなってきました。臨海教育をやめるとなると子どもたちが水に親(した)しむ機会(きかい)をもたないことになることを心配したPTAと有志(ゆうし)は、費用の半分を立て替えてもよいから、ぜひ小学校に水泳プールをつくってほしいと町に懇願(こんがん)しました。町には昭和37 年に町営プールをつくる計画があり、なかなか応じてはもらえませんでしたが、最後は熱意(ねつい)に折れ、小学校にプールがつくられました。夏休み中、プールには終日子供たちの歓声(かんせい)と水しぶきが踊(おど)り、先生とPTAが交代で監視(かんし)を行いました。小杉小学校の水泳プールは、射水郡では2番目に早く作られました。


●下条川の大水で休校 <昭和39年>

夜から朝にかけて県内で200 ミリを超える50年ぶりの豪雨(ごうう)に見舞(みま)われました。下条川は氾濫(はんらん)して両岸(りょうぎし)に大きな湖面(こめん)をつくり、水はグラウンドはもちろん、中庭、建物の床下まで流れ込みました。子どもたちの登下校(とうげこう)の安全確保が困難(こんなん)なため、この日は休校となりました。



テレビが各教室に入った <昭和41年>

同窓生(どうそうせい)の寄付(きふ)により、各教室にテレビが整備(せいび)されました。


大阪万博 <昭和45年>

「人類(じんるい)の進歩(しんぽ)と調和(ちょうわ)」をテーマに、日本万国博(にほんばんこくはく)(大阪万博(おおさか)ばんぱく)が開催されました。会場内には大小100 余りの展示館(てんじかん)が建てられ、国や団体ごとに工夫を凝(こ)らした展示が行われ

ました。その中でも日本館は会場で最大の展示館でした。その建物の銘板(めいばん)の文字は全国の小中学生から公募(こうぼ)され、みごと小杉小学校の水上君の作品が全国第一位に入賞し、銘板に採用(さいよう)されました。


学校統合が実現 <昭和46年>

小杉小学校が老朽化(ろうきゅうか)し、児童増加に伴い増築を重ねたことにより通風採光(つうふうさいこう)も悪かったため、改築の必要性がでてきました。また、校地不足(こうちぶそく)、民家近接(みんかきんせつ)、国道の騒音(そうおん)などもあり、改築する場合は移転するべきとの声もありました。これらのことを背景(はいけい)に、校地を下条川東部の北部線沿いに求め、小杉小学校と大江小学校の統合小学校を建築することが決まりました。そして、新校舎が完成するまで、両小学校は小杉小学校の教場になりました。


統合小学校の開校式 <昭和48年>

新校舎の竣工式(しゅんこうしつ)と開校式(かいこうしつ)が4 月14 日に行われ、多くの関係者がこの日を祝いました。また、この年小杉小学校は創校100周年を迎え、学校の歴史においても格別(かくべつ)記念すべき年になり、記念事業が華(はな)やかに行われました。