藩政時代(はんせいじだい)から明治初年の学制頒布(がくせいはんぷ)まで、小杉には寺子屋(てらこや)がいくつもありました。主に読み、書き、算が教えられ、書きの習字が最も重んじられていました。寺子屋に通えたのは、武士や商人、豪農(ごうのう)など裕福な家の子だけでした。
明治5年、明治政府(めいじせいふ)は「学制(がくせい)」を公布(こうふ)し、貧富地位(ひんぷちい)による身分(みぶん)や、男女の性別(せいべつ)による差別(さべつ)が一掃(いっそう)され、誰でも平等(びょうどう)に教育を受けられる義務教育の制度(せいど)が確立(かくりつ)しました。
明治6年、戸破日澄寺(にっちょうじ)に和親小学校が開設されました。児童数は男271 人、女42人。この年、富山県内では272校の小学校が開設されました。この頃小学校に入学した子どもは4人に1人くらいで、とりわけまだまだ女子の入学は少なかったようです。
明治9年、大江西養寺に文静小学校が開設されました。和親小学校の分教室(ぶんきょうしつ)などを経(へ)て大江小学校に至ります。
明治11 年、日澄寺にあった和親小学校は三ケに、進成小学校が戸破金胎寺(こんたいじ)に、済容小学校が大手崎に開設されました。
(在学生332 名)
明治時代にも試験(しけん)がありました。そして、学校と家庭の連絡ということで、通知表(通知表)もありました。
8:00~8:30 復読
8:30~9:00 譜誦、問答
9:00~9:05 体操
9:05~10:00 読方
10:00~10:25 国体、修身
10:25~10:30 体操
10:30~11:20 書取
11:20~12:00 算術
12:00~12:50休息
12:50~1:00体操
1:00~2:00習字
文静小学校廃校後、小杉町立和親小学校の分教室(ぶんきょうしつ)になりましたが、市町村制実施(しちょうそんせいじっし)・教育令改正(きょういくれいかいせい)により大江小学校と名前がかわりました。
名前がかわったの翌月(よくげつ)校舎(こうしゃ)が新築(しんちく)されました。また、いくばくもなく、学校の名前が古杉尋常高等小学校に変わりました。
はじめての運動会は小杉駅の予定地(よていち)をかりて行われました。ちょうど北陸鉄道が高岡から富山に至(いた)る区間の整備を行っており、敷地(しきち)が確保されていました。
この地域(ちいき)ではいまだかつてないことで、大変な人気となり、多くの参観者(さんかんしゃ)で大盛況(だいせいきょう)となりました。
競技(きょうぎ)は二人三脚(ににんさんきゃく)、いす取(と)り、障害物競争(しょうがいぶつきょうそう)などがありました。
そののち明治38 年からは毎年秋に校庭(こうてい)で開かれましたが、全校児童(ぜんこうじどう)が運動するには十分(じゅうぶん)な広さがなかったためか、参加(さんか)は全校児童の半分(はんぶん)ほどで、抽選(ちゅうせん)で決(き)められました。
校歌「治る御代」が制定(せいてい)されました。大正時代(たいしょうじだい)初期(しょき)にはダンス風に編曲(へんきょく)され、運動会では女児童(じょじどう)がおどりました。
児童主催(じどうしゅさい)で行われ、歌や演奏(えんそう)のほか、児童による話などが披露(ひろう)されました。さすがにまだ、踊りや劇(げき)のようなものはありませんでした。
開校以来(かいこういらい)児童数(じどうすう)の増加(ぞうか)が多大(ただい)となったので、校舎が新築されました。さらに大正12 年には東側に増築(ぞうちく)を行い、郡内屈指(ぐんないくっし)の大校舎になりました。
明治30 年前後から、学校保健(がっこうほけん)が一般(いっぱん)に関心(かんしん)をもたれるようになりました。文部省(もんぶしょう)は「学校清潔法(がっこうせいけつほう)」を公布(こうふ)し、春と秋に身体検査(しんたいけんさ)を行うことや学校医(がっこうい)の設置を決めました。
この頃(ころ)大流行(だいりゅうこう)したのが、トラホームという眼(め)の病気(びょうき)です。眼が真っ赤になり、結膜(けつまく)には小さい粒(つぶ)がいくつもでき、伝染(でんせん)していく病気です。手を清潔(せいけつ)にし、友達間(ともだちかん)での物のかしかりが禁(きん)じられました。現在(げんざい)この病気はもうありません。
児童の増加(ぞうか)や義務教育(ぎむきょういく)の延長(えんちょう)により、いよいよ校舎の狭(せま)さと設備(せつび)の不完全(ふかんぜん)が感じられるようになったため、移転(いてん)し増築されました。